見出しと内容の不一致が気になる

小学生の頃、授業で新聞記事を書いた。担任の先生は、「題名は一行で内容がわかるように書きなさい」と言い、私は記事の見出しを書くのに一番苦労したのを30年近く経った今でも覚えている。それからは、新聞を読む時見出しをみてはプロの新聞記者ってさすがだなーと思ったりしたものだ。

で、最近インターネットの見出しをクリックすると、読んでも読んでも見出しに出てくる内容にたどり着かない。たどり着かないのではなくて見出しと内容が一致していないのだ。

例えば「脳の疲れを取る方法」みたいな記事があったとして私は方法を知りたくてクッリクするのに「脳の疲れ」についてなんとなく関係あることが書いてあるとしても方法については触れられてさえいない、なんてことがざらにある。記事の一番下に脳の疲れを取る方法に関する書籍のリンクが貼ってあったりして、要するにこれを売りたいのね、と最後にわかる。

そのほかにも「芸能人xxが瓜二つの家族写真を公開」みたいな記事がをクリックしても写真は出てこない。一度気になってしまったので悔しいけどわざわざその芸能人のブログに行ってみても、写真が公開されているのがどの記事なのかわからないから結局を見つけられずに終わる。写真の転写ができないのか?ならどうしてこんな記事を書くのだろう、とフラストレーションばかりたまる。

クリックの数を増やせば誰かが儲かるシステムなのか、記事・記者が氾濫しすぎていてクオリティーコントロールという意識自体がなくなってしまったのか、どちらにしろ見出しと内容の一致の大切さを今改めて痛感したりしている。

愛と愛の形について

子供が出来てから、家族愛について考える機会が増えた。

最近、愛があるかないかと、与えられる愛の形に満足するかしないかは別の話だと思い至った。

私は母とも父とも長い間仲が悪く、母との関係は子供が出来てから改善したけれど、父とは未だに絶縁状態にある。夫にもイライラが募り、関係は結構冷めていると思う。

でも心の奥の奥の深いところで実は知っている。母にも、父にも、夫にも私はとても愛されていることを。

でも、私の思い通りにならない彼らの言動に傷ついたり不満を覚えたりして表面的に関係が悪化して、私の負の感情が雪だるま式に大きくなってしまう。

仕事ばかりしていないでそばにいて欲しいのに、そうならない。酩酊状態になるまでお酒を飲むのをやめて欲しいのにそうならない。

そういう不満ばかりが浮かんできて、ああしてくれない、こうしてくれない、あんたなんかもうイイとなる。

家族も人間。彼らの望む望まないに関わらず、私の思い通りには行動できないけれど、みんな私のことを愛してくれている。そしてそれって大きいんだ、と。

これからの人生、私の子供たちは私がすること、しなかったことに何かしら不満を抱いたり、私のことを恨んだりすることがあると思う。

けれど、いつも愛されていた、という事実はとても大きな力となって子供たちの人生の土台を支えてくれるはずだ、と今思う。

シャンプーやトリートメントで髪の毛はきれいにならない

2歳の娘の髪は、艶があり、とてもきれいだ。

トリートメントやコンディショナーは生まれてから一度も使ったことがない。

シャンプーもほとんどしない。

ぬるま湯で洗うだけ。それも毎日はしない。

 

彼女を見ていて思う。若くて健康な人間の髪の毛はもともと美しいものなのだ、と。

その美しさはいいトリートメントや美容グッズによってもたらされているのではない。

傷んだ髪がある製品を使うことによってきれいになるとか、

そういうのは、ものを売ろうとしている人たちが作り出したマーケティングの幻想だ。

 

そんなことに改めて気づかせてもらった。

プライベートな会話

アメリカ人は誰かに聞かれたくない話をする時

「ちょっと二人だけで話をさせてくれない?」とか、「ちょっと席を外してくれない?」みたいなことを結構言う。または「xxさんと話がしたいから。」と言って堂々と他の人のいる部屋から出て行く。日本だったら他に人がない時にすればいいのに、と思われそうな場面だが、そういう文化なのだ。変な言い方かもしれないけど、プライベートな会話を堂々と持つ文化ということだと思う。

 

先日義母が美容整形手術を受けた。が、何やら義母が住んでいるところより私たちの住んでいる地域の方がいい病院があるそうで、手術を受ける為に家へ泊まりに来た。

義母は「簡単な手術よ。あなたは何もしなくていいのよ。」と言っていたが蓋を開ければ6時間に及ぶ大手術になった上、日本ではたぶん絶対認可されなそうな痛み止めを処方され食事中に寝だす程朦朧とした義母を看病する壮絶な数日間となった。私は当時1歳になっていない娘を連れて義母を病院まで送り迎えし、義母の食事の世話やなんやかんやを思いがけずすることになり本当に大変だった。主人は仕事で家にいない為、彼に「やってよ」と言いたくても言えない。そして、痛み止めで終始朦朧としていた彼女は私(を含めて他の人)がしたことは一切覚えてない。けれど自分の状態から誰かに世話をかけなければいけなかったことは分かっていたようだ。

 

手術から一週間ほどが経ち義母が家に帰る頃、主人が義母の泊まっている部屋に入っていくと彼女がドアを閉めるように指示した。主人曰くそこで義母は手術が思いの外大変で迷惑をかけてしまったことを謝り、感謝の言葉を述べたらしい。

 

ここで私の中の何かが崩れた。私は別に感謝されようと思って世話していたわけではないけれど、何故この会話の為にドアを閉めてなければならなかったのか?家の中には私と当時一歳にもならない娘しかいない。ということは、義母がこの会話を聞かれたくなかった相手は私しかいないということになる。

 

ああ、この人苦手だ。

義母が娘にくれたもの

贅沢な悩みかもしれないが、アメリカ人の義母からの贈り物に困り果てている。

なぜなら大概の場合彼女のくれる物は低品質かつ不要な物で趣味、好みも私のそれとはまったく違うからである。

でも彼女は人に物をあげるという行為が大好きで、たぶんそれが彼女の人生の楽しみなのだと思う。だからできるだけ喜んでるようにして感謝を伝え、物は黙って処分する。

けれど今回は本当に理解に苦しむ贈り物が来た。

それは40年前にリサイクルショップで買った「中国人の人形」で、ここ10年ほどは彼女の愛猫のおもちゃだったが孫(私の娘)にあげる、とのことだった。

頂いた時は返す言葉が見つからず絶句してしまった。

いや、サンキューくらいは言ったと思う。

たぶん私が日本人だから中国人の人形をあげたかったのだろう。

実際彼女は私にアジアっぽい物をくれたがる。

ああ、この人苦手だ。

義母がくれるもの

義母は買い物好きだ。買い物中毒なのではないかと思うくらい、買うという行為が好きなのだと思う。何故なら彼女は欲しいものがないにもかかわらず、買い物をする為に買い物をしているように私には見えるからだ。

その一環として、ebayとかで買った物を大量に私や私の娘たちにくれる。

その頻度は結構なものなのだけど、ほとんどの場合がすごく安いものでもらって困るものだったりする。

私はいい物を買って長く使いたい方なので、義母からの贈り物が非常にストレスになる。

義母からの贈り物

が来るとパッケージを開ける前に彼女からだと分かる。

なぜなら宛名の私の名前が毎回間違っているから。

随分前に正しい名前を何度か伝えてみたけれど変化なし。

義母か家へ来ている時にちょうど彼女からのパッケージが届いたのでその時にも言ってみたら

「正しい名前は知っている。」

と言われた。

けれどアマゾンとかebayに登録しある私の名前が間違っているから毎回そのまま届くらしい。

直す気ゼロ。

夫と結婚してもうすぐ4年目。