外国人であるということ

私はアメリカに住んでいるから、常に外国人扱いされる。これは私がアメリカにに住み続ける限り変わらないと思うし、どんなに長くここに住んでも私がアメリカ人に見えるようになることはないと思う。これは別に構わないと思っている。

外国人扱いにも大分慣れてきたこの頃なのだけれど、時折うんざりしてしまう時がある。最近になってそれは、相手の無知故に極端に一般化される時、そしてその一般化が「日本人だから」というもので、その内容があほらしすぎると感じる時に私は悲しくなるらしいということに気づいた。

具体例を挙げると

①数年前にアメリカ人の友人たちが誕生日を祝ってくれた時のこと、サプライズでバースデーケーキが出てきたので、私はいつもより大げさに喜んでみた。そしたら10人ほどいた友人の一人が「もしかしてバースデーケーキって初めてだった?ケーキ見たことある?日本にケーキってあるの?」と聞いてきた。彼にとって日本が遠い異国の地であることは知っている。けれど曲がりなりにも先進国と呼ばれる日本にケーキがないのかもしれない、日本人である私は生まれて初めてのケーキ、しかもバースデーケーキをもらったのかもしれないと思われたことにちょっと吃驚してしまった。

 

②主人の知人の家に泊めていただいたとき、私は彼のコーヒーマシーンの使い方が良く分からずコーヒーを溢れさせてしまった。その失敗に気づいた時、彼は私に「コーヒーマシンって見た事あった?日本人ってコーヒー飲むの?」と私に聞いた。慰めてくれようとしたのかもしれないけれど、私の側から見た場合これは、初めて行ったお宅のコーヒーマシンの使い方が分からなかった、という出来事で、一方で日本人と接点のない彼の側から見た同じ出来事は、日本にはコーヒーがないかもしれなくて、日本人である私は生まれて初めてコーヒーマシンを触ったのかもしれない、と言うものになった。

 

これは両方ともアメリカに来たてではなくて5、6年住んでからのことである。

外国が未知の世界なのは分からないでもない。私もそんなに多くの国のことを詳しく知ってる訳ではない。けれどこういう日常の小さな出来事が時折にやけに気になってしまう。

そういえば大学院生のとき教授から日本にピザってあるの?って聞かれたこともあったなぁ。まぁ、主人の叔父さんは日本人は肉を食べない(魚しか食べない)と思ってたみたいだし、大して興味のない外国についての知識なんてそんなもんなのだろうか。