妊婦とサーフィン2 妊娠5ヶ月
さて2度目の妊娠がわかった私、1度目の妊娠の時はほとんどなかったツワリにがっつりやられ、寒いし気分は悪いしサーフィンしようなんて考えもしなかった妊娠初期。
「サーフィンしないからツワリが酷くなるんだよ。運動したほうがいいよ。」とか知れた顔でいう夫。
お前がツワリになってサーフィンしてみろ!と心の中で叫びながら「そうかもねー。」と表面は軽く受け流す私。所詮他人事ですものね、アナタ。
確かに、1度目の妊娠の時は毎日、とは行かないまでも日常的に海に入っていたしサーフィンは生活の一部で私はもっと元気だった。それを覚えていて夫はああ言っているのかもしれない。
妊娠も中期に入り、ツワリが安定してきたし気温もちょっと春めいてきた昨今、お腹もちょっと出てきた。今やらないとずっとやらないかもしれないと思った私は、重い腰を上げてサーフィンに行った。コンディションは良くなかったけど、行くことに意義がある。
で、思ったより全然問題なかったpaddle out。体が覚えているもんなだーと感動した。前回の妊娠の時もそうだったけど、バランスが悪くなっていて、波に乗れたと思った瞬間板の上で滑ってこけた。ワックスが足りなかっただけか??
大した波乗りもできなかったけど、数ヶ月ぶりに海に入った後特有のあの心地よさを感じ、気分は上々。また行こう。寒いけど。
妊婦の巣ごもり本能
買い溜めする派 or しない派?
と聞かれたら、「しない派」と即答するのが普段の私。
断捨離大好き。
ほとんどのものは無くなってから買いに行きます。
しかし妊娠5ヶ月の今、目に見える勢いで買い溜めしてる自分に気づきました。
サランラップ、アルミホイル、洗剤 etc....赤ちゃんが生まれたら買いに行くの大変だからなんてちょっと考えるけど出産までまだ時間はあります。今こんなに買わなくてもいいだろうと思う自分がいる一方で、あれもこれも…と買い溜めするもののリストを考えている私。
これって巣篭もり本能なんじゃない?というのが自分を観察した結論です。
ピンクフロイドでヒッチコックな一日
一歳の娘とビーチに行った。
娘海沿いを歩きながらバケツに石を集めていた。
ずいぶん大きな石も持ち上げられるようになったし、石を入れたバケツを運びながら歩くなんて成長したなぁと思いながら娘を眺めていた私。
数分後、娘がバケツを私に向かって突き出してきた。
どうやら重くて運べなくなったから私が運べということらしい。
私がバケツを受け取ると、身軽になった娘はぐんぐん海沿いを歩いて行き、落ちている石ころを私が運ぶバケツにさらに入れていく。
ああこれってまさしくピンクフロイドの曲Hey youの”would you help me to carry the stones”が現実に起こっている瞬間だわ、とか思いながら私は石を運びながら娘の後ろをついて行く。
しばらく行くとカモメの群れがビーチに座っていた。20羽はいただろうか。
きっと群れになってじっとして北風を避けているんだわ、と思いつつ鳥好きの娘に
「鳥さん座ってるねー。ミテゴラン。」
などと言いながらしばらく立ち止まっていると群れが一斉に飛び立った。
かと思いきやどこに行くでもなく私たちの頭上を旋回しながらゆっくり後をついてくる!これって威嚇されているのだろうか。これだけの数に攻撃されたらかなりのダメージ、ヒッチコックの映画「鳥」みたいになったらどうしよう!なんて考えながら娘を連れていた私は本当に恐怖を感じ、でもそれを鳥たちに悟られまいとゆっくり歩いてその場を立ち去った。鳥たちはかなりの距離をついて来た。
家に帰ってからネットでカモメの群れ、威嚇について調べてみたら出てくる出てくる、中には小型犬が殺されたなんて記事もあった。
恐ろしい。
サーフィン 産後14ヶ月
出産を機に、私とサーフィンの関係は著しく変わったと思う。
妊娠する前は、とにかくサーフィンより素敵なものはないという気がして、サーフィン事故で死んだら本望、とけっこう波が大きい時もワクワクしながら海に出ていた。
妊娠8ヶ月の時サーフブレイクでかつてない恐怖心を覚えて以来、それまで楽しいと思えたサイズの波を怖いと思うようになり、産後一年経ってもサーフィンに対する情熱は戻って来ていなかった。小さな波や人が少ないところでのするサーフィンは好きだけど、もう私の背より大きな波に乗ったり、上級者向けのブレイクに行ったりすることはないんだろうなという気がしていて、妊娠と出産を機に私のホルモン分泌やら脳内化学物質は永遠に変わってしまったんだわ、とちょっと残念な気がしていた。
しかし、産後14ヶ月を過ぎた頃からなんとなくまたちょっと大きめの波に、以前ほどではないにしても乗ってみたいなという気がしてくるようになった。
ちょっと前までは2時間おきに授乳してた娘も、今では私なしで結構な時間過ごせるようになってきて、私の母性本能というか、脳内の化学物質分泌がはたまた変わったんだなーとしみじみ思う。
妊娠中、乳児がいるとき危険なことやリスクを自然に極端に避けたくなるなんて、人間ってつくづくうまくできてるな、と思う。
結婚している理由
結婚する理由と、結婚を継続する理由というのは、まるで違ってくるというのは結婚しなければこそ意識しないが、結構普通のことなのではないかと思うようになった。
私を結婚に踏み切らせたのは愛だったような気がするけど、二年半経った今、自分でもびっくりするほど薄っぺらだった私の愛は見事に消え失せ、お金と子供のために結婚していると思っている今日この頃。
彼がいなければ幼子を抱えて働かなくてはならないし、彼がいるからこそ車のメンテナンスが知らない間にできていたり、体調が悪い時は彼に子供を見てもらってゆっくりトイレに入ることができたりする。そう考えればありがたい存在だと素直に思うことができる。
これって悲しいことかとしばらく思ってたけど、世の中は諸行無情、人は常に変わっていく。
私たち夫婦の関係が変わるのも普通のことなんだろうなとふと思い、そこからけっこう簡単に受け入れられるようになった。
ケニアのテロとフランスのテロ
またフランスのテロ関連の話。
私が住むアメリカではフランスの自爆テロが連日報道されまくり、この報道のされ方はを見ていると911を思い出すのは私だけではないだろう。
私はパリに2度行ったことがあり、フランスには親しい友人達もいる。
今回の事件はまさに悲劇であり、許されざる行為であると心から思う。
話は変わって私はケニアにも行ったことがある。いい思い出がたくさんある、美しい場所だった。
今年の4月、首都ナイロビでイスラム武装勢力によるテロがあり、147人の命が奪われた。で、このテロに関して日本、アメリカどちらのメディアでも報道されているのをほとんどと言っていいほど見た記憶がない。
この差はなんなのか?と私は考えずにはいられない。
フランスはケニアに比べて、日本やアメリカにとって何かの理由でより重要だとされているようだ。それは日本やアメリカがフランスと結託した場合、ケニアと結託することでは得られない得な何かがあるのだろう。
フランスのテロ、ケニアのテロで亡くなった方々のご冥福を祈るのみである。
Kamikazeという英語
今朝ネットで
特攻隊は「テロリストとは違う」「戦友への侮辱だ」 仏報道に88歳元隊員憤り
という記事を見た。記事の内容は
パリで起きた同時多発テロで、フランスのメディアが自爆テロ実行犯を「kamikaze」と表現していることに、元神風特攻隊員から憤りの声が上がっている。命をなげうち、祖国を守ろうとした特攻と、無辜(むこ)の民間人を犠牲にするテロを同一視するような報道に、元隊員は「国のために戦死した仲間は、テロリストとは全く異なる」と反発し、「日本をなんとか救おうと、愛国心の一念から仲間は飛び立ち、命をささげた。テロと特攻を一緒にするのは戦友に対する侮辱であり、残念至極だ」と言っている。
というものだった。
特攻隊は「テロリストとは違う」「戦友への侮辱だ」 仏報道に88歳元隊員憤り(1/2ページ) - 産経WEST
これが今の私にとてもタイムリーで今日ブログを書かずにいられない。
昨夜アメリカ人の夫とテロについて話している時、彼がフランスのテロ実行犯をKamikazeと言ったことに違和感を覚えた。大学生の時「きけわだつみのこえ」に衝撃を受け、を何度も読み返した私にしてみれば、アメリカで生活していて、アメリカ人の神風特攻隊に対する認識には心が痛んで仕方無い。
このKamikazeという言葉は、いわば英語になった日本語である。
今回のフランスでも使われているらしいことを知ったから、津波とか寿司レベルで欧米諸国に知られている日本語なのだろう。
昨夜の会話の途中に私が反論しようとすると夫は、
「日本語の本来の意味では間違っているのかもしれないけど、Kamikazeは自分の命をも顧みずに思想に準じて自爆する」人という認識がアメリカではなされている、と説明。話が横道にそれそうになるのを抑えた。彼が実際に使った英語はthey don't care (about their own and/or other people's life), they just bomb peopleとかそんな感じで、「日本語の本来の意味では間違っているのかもしれないけど」という前置きにこそ私や日本人に気を使っているのが伝わっては来るけれど、Kamikazeは気でも違った人たちの総称の様なニュワンスだったので私はひどく気分が悪くなった。
この後私達はおバカなコメディー映画を見てから床につき、夫はもう昨日の私達の会話のことなど考えてもいないだろう。今日仕事から帰ってきた夫に、話をほじくり返してKamikazeの説明をするのが得策とも思えない。正直、どう言っていいかわからないというのもある。そして私のこの行き場のない憤りはこのブログへと発散される。
「Kamikazeという英語」という題名をつけたので、これについてもう少し説明しようと思う。私が初めてKamikazeという英語に遭遇したのは実は日本、東京だった。10年以上前にアメリカ人の友人とバーに行った時、彼がKamikazeというカクテルを注文していた。カクテルの中身は忘れたけど、すごく強いお酒だったことは確かで、だからKamikazeと名付けられたのだろう。他にも傍若無人、無謀で正しく昨夜の夫の説明の様な人をKamikazeと形容する。